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アドルノ的唯物論との対話

石の上悟り切ったと石頭

アドルノ的唯物論との対話

石頭=物化された意識を揺り動かし、語りえないものを語ろうとする哲学的試行

著者 服部 健二
ジャンル 哲学・思想
出版年月日 2016/10/30
ISBN 9784875593225
判型・ページ数 4-6・318ページ
定価 本体3,400円+税
在庫 在庫あり
 

目次

プロローグ―石の上悟り切ったと石頭
 一 語りえないものを語ろうとすること―この著作の意図
 二 落ちこぼれ冥途の旅の暇つぶし
 三 すべてこれ銭こそいのちホリエモン

第一部 「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路あまりの年をへにけり」(西田幾多郎)
 第一章 「赤きもの赤しと云はであげつらひ」
   一 蓑田胸喜の攻撃
   二 西田幾多郎の時局認識
   三 赤きものの無限の縁暈
 第二章 蟬の声と鶏頭の雨――物の無限の縁暈
   一 物の無限の縁暈
   二 フランクフルト学派と三木清
   三 人間学の系譜― 田邊・三木・舩山
   四 昭和研究会と三木・舩山の身体概念
 第三章 「時において時を生むもの」― 梯明秀の「全自然史」の思想
   一 デンカーDenker 梯明秀について
   二 弁証法的物質概念
   三 西田の行為的直観と梯の実践的直観
   四 唯物論的実存
   五 経済学的カテゴリーの主体的把握

第二部 深き闇慄き黙せその時を待つ
 第一章 理性と情念
 第二章 「東亜の民族ここに戦へりふたたびかかる戦なからしめ」(小泉苳三)―従軍歌集『山西前線』の読み方
   一 小泉苳三の教職追放事件
   二 序歌と「聖戦」五首
   三 「生命」と「人格」
   四 有機体説としての全体主義的協同体論
 第三章 深き闇慄き黙せその時を待つ―暴力・審判・救済
   はじめに 論文の目的
   一 近代的法的人格― 責任能力をめぐって
     1 フォイエルバッハの罪刑法定主義  2 心理的強制説をめぐって  
     3 精神障礙者の責任能力をめぐって
   二 コラの反逆、ラザロの復活物語に寄せて
     1 「第二の自然」としての法の暴力  2 コラの反逆と神的暴力
     3 ラザロの復活
   三 審判と救済
     1 超越的審判と歴史的審判  2 啓蒙の弁証法と良心
     3 行為的良心と批評的良心  4 和解に向けて
     5 さいごに 歴史的審判の問題

第三部 誰のせい知ったことかと石頭
 第一章 有罪schuldig それとも無罪unschuldig ?
   一 生活現場と哲学
   二 有罪schuldig それとも無罪unschuldig ?
 第二章 自然についての哲学的問いと科学主義―加藤正の理論的立場について
   一 党派性論争に対する私の基本的視点
   二 他のお二人との違いについて
     1 藤田友治論文について  2 鈴木正論文について
 第三章 唯物論の批判的検討
   はじめに
   一 自然に対する美的直観
   二 消極的無神論
   三 身体としての意識
   四 唯物論と超越論主義
   五 唯物論と形の思想
  [資料]質的存在論への試論―ある梯ゼミレポート
   (1)哲学の始元(アンファンク)について
   (2)身体論について
   (3)フォイエルバッハの身体論とそれによって開示される新たな存在論への試論

第四部 メドゥーサの首を捧げて知を求め
 第一章 自然史のアレゴリー
   一 九月二十六日、四十八歳
   二 メドゥーサの首を捧げて知を求め
 第二章 「知覚された木は燃える」(アドルノ) ―ホルクハイマーとの違い
   一 コルネリウスとの関係
   二 ホルクハイマーとゲシュタルト理論
   三 アドルノと純粋経験論
   四 「力の戯れ」と弁証法的媒介
 第三章 メドゥーサと憂鬱なまなざし
   一 自然史の反省的構造
   二 内面的主体性と憂鬱な空想
   三 美感的なものの感受と自然の可能性―アドルノ的唯物論
   四 特定の否定と非同一的なもの

エピローグ
   註
   人名索引

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内容説明

石頭=物化された意識を揺り動かし語りえないものを語ろうとする哲学的試行

西田幾多郎から三木清、梯明秀へと至る京都学派「左派」の系譜と、アドルノ「非同一性の哲学」に立脚した〈唯物論〉との邂逅。

 

……私たちの語りは、なにかあるものについての語りがあるものの開示と隠蔽を、他者への伝達が他者の瞞着を、自己の表出が自己欺瞞を、聖なるものの語りが権威の鎧(よろい)をまとって自己中心的に語るという人間の倨傲(きょごう)への転倒を、いつも孕んでいるのです。
 なにかについて語るこうした私たちの語りに不可避で二律背反的な自己矛盾的事態は、こうした仕方でしか語れない私たちの振る舞いの有限性、私たち有限な人間存在の固有のありかただといえます。しかしだからといって沈黙することはできません。私たちはなにかについてそれでもなお語りたいし、伝えたいし、そのことによって自分を表し、それをなくてはならぬ大事なことと信じて語りたいのです。フランクフルト学派のアドルノがいったように、語りえないものを語ろうとする営みが哲学であるとすると、それだけに私たちの語りの孕む根源的な二律背反を自覚することが、哲学的な思考に求められているといえます。石と化して物と一体になることに安住せず、石化した羅漢の頭をつねに揺り動かして、語りの自己矛盾的事態を自分自身の重荷として背負った生きた像を彫り続けることが、哲学的思考の試み、試行ではないでしょうか。(「プロローグ」より)

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